
小頓別という音威子府と浜頓別の途中にあった街の旅館跡「丹波屋」。宗谷線、後の天北線の駅そばの旅館。ここから殖民軌道の歌登町営軌道が歌登に向かって延びていた。ビジネスマンという言葉がなかった時代の様々な仕事のヒト、生活の中でいろんな事情で旅が必要になっていたヒトが利用したものか。

歌登健康回復村に保存されている殖民軌道のディーゼルカー。美幸線の前史となる。地域の希望と政治と霞ヶ関行政は、時に時代の潮流が読みきれず、政策のアクセルとブレーキが同時に踏まれ、結果、誰のためにもならないことがある。本当に必要とされて旅館があったり、馬車軌道、その後の機関車があった時代と国鉄の鉄路の未成線が拡がった時代にはおおいに隔たりがある。過去の歴史ではなく「積極財政」を標榜する時代に考えてもらいたい。